「 『竹島』領有権を検証する 」
『週刊新潮』 '05年4月7日号
日本ルネッサンス 拡大版 第160回
特集 続「韓国」最新レポート (後編)
韓国の盧武鉉大統領が、日韓関係は「もはやこれ以上看過出来ない事態に至った」として力んでいる。
3月23日に発表した「国民に捧げる一文」の中で、同大統領は小泉純一郎首相の靖國神社参拝、島根県による竹島の日の制定、4月に予定されている歴史教科書検定結果の発表などに触れて、「侵略と支配の歴史を正当化し、再び覇権主義を貫こうとする(日本の)意図をこれ以上放置出来ない」と次のように決意表明した。
「これまで日本に対して言うべきことや主張があっても(韓国政府は)慎んできた」「(韓国の)被害者たちの悲痛極まる絶叫を聞いても(韓国政府は)手助けしなかった。被害者が真相究明で東奔西走したときも助力しなかった」。しかし、「これからは政府の出来得る全てを行なう」「外交的に断固として対応し、日本政府の誠意ある回答を得るまで粘り強く要求する」と。
「厳しい外交戦争もあり得る」として、「今度こそ必ず根を断ち切る」「この戦いは一日、二日で終わらない」「持久戦である」などと叱咤する。
3ページを超える長文のメッセージは「我々は勝利するでしょう」との言葉で結ばれているが、冷静な対処という国民への呼びかけが虚しく言葉の表層を滑り、大統領自身が冷静さを失っているとの印象が残る。
事の次第を振り返れば、3月1日の独立記念運動の日、盧武鉉大統領は記念演説の大半を日本批判に費やし、日本に過去の歴史の謝罪と賠償を要求した。
16日、島根県議会が2月22日を竹島の日と制定した。これを受けて3月17日、韓国政府は国家安全保障会議(NSC)を招集、「対日新政策」を発表。独島(竹島)問題での“挑発”は過去の植民地侵略と同様の行為と認識して対処するとした。
注目すべきは「対日新政策」の発表の際、鄭東泳(チョンドンヨン)NSC常任委員長兼統一部(省)長官が「既存の韓日協定と関係なく」日本側に積極的な解決を促すと述べた点だ。「既存の韓日協定」とは、1965年の日韓基本条約のことであろう。両国が結んだ国際条約を反古にすると言っているに等しい。常軌を逸したこの路線は盧武鉉大統領の路線そのものである。
3月20日、盧武鉉大統領はライス米国務長官に、予定の時間を超えて竹島についての韓国の立場を説明、領有権は韓国側にあることを歴史的、地政学的に説明し、韓国の立場への支持を取りつけようとした。
この流れの先に、冒頭の大統領演説があったのだ。政策の失敗で一時は20パーセント台にまで落ちた大統領への支持率は、対日強硬論を唱えることで回復しつつあるという。
韓国民をこれほど熱くさせる反日感情、とりわけ強力な火元となる竹島問題。大統領も国民も、一体どんな理屈で竹島は韓国の領土だと主張するのだろうか。
竹島問題の第一人者、拓殖大学の下條正男教授は、竹島問題は問題自体を超えて、日本の歴史を学び、日本再生につなげていくべき課題だと強調する。
「主張の正否は別にして、韓国では竹島の歴史を学ばない国民はいない。翻って日本はどうでしょうか。とても韓国人には及びません。竹島は決して小振りの島の問題ではなく、国の在り方や歴史にどう対座するかの問題なのです」
改竄された歴史書
日本人よりもはるかに熱情を込めて竹島を見詰めてきた韓国は、日本が竹島を日本領土だというずっと以前の6世紀初めから竹島は朝鮮領だったと主張する。根拠は1770年に書かれた『東国文献備考』という書物だ。下條教授の解説だ。
「この文献の中の輿地考(よちこう)という一篇に、〈輿地志(よちし)に云う、鬱陵(うつりょう)、于山(うさん)、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり〉と書かれています。かつて日本は竹島を松島と呼んでいました。そして鬱陵島も于山国も512年に新羅に編入されましたから、竹島はそのときから朝鮮領だという理屈です」
問題はこの文献に登場する于山島が、本当に日本の松島、つまり現在の竹島なのかである。結論から言えば、干山島は竹島ではなかった。下條教授が説明した。
「韓国側の主張の根拠、東国文献備考に引用されている『輿地志』はすでに存在しません。当然、輿地志の記述が本当にそのようになっているのか否かは確認出来ません。そこで輿地考の底本である『彊界考(きょうかいこう)』を検証しました。するとそこには〈輿地志に云う。一説に于山鬱陵本一島〉と書かれています。つまり于山島も鬱陵島も同じ島だと書かれているわけです。重要なのは、この記述の後に彊界考を著した人物の私見として、〈而(しか)るに諸図志(しょずし)を考えるに二島なり。一つは則ち基の所謂松島にして、蓋(けだ)し二島ともに于山国なり〉と書かれていることです。元々の輿地志には干山島が松島であり、日本の竹島である等とは一切書かれていなかった。のみならず、于山島は鬱陵島のことだと記されていた。にもかかわらず、18世紀に著された彊界考の解説の中で于山島は松島だという主張が作られていったのです。それが『輿地考』で更に改竄されたのです」
つまり、512年から竹島は朝鮮領だったという主張は成り立たないのだ。韓国側の主張する最も古い歴史的根拠が改竄によるものだったと、文献を示して証明したのは下條教授が初めてである。事実に沿って検証するという意味で日韓両国にとって非常に意味深い。
それにしてもなぜ、改竄が行われたのだろうか。
「『東国文献備考』は1770年の編纂当初から、『記載するところ疎略』と批判され、杜撰さが指摘されていました。備考の編纂を命じた李朝の英祖(えいそ)が完成を督促したため、わずか5カ月間で、当時の文献や資料を種本に使って完成に至ったのです。余りに急いだために十分な検証も難しかったのではないでしょうか」
于山島が竹島であるとの主張は、安龍福という人物によって初めて展開された。彼は1693年、江戸元禄時代に鬱陵島に渡ってきた。その時日本人漁師に捕らえられ、隠岐経由で鳥取藩に送致されて取り調べを受けた。やがて朝鮮に送還されるが、3年後の1696年に再び隠岐に密航した。下條教授がこの人物を語った。
「根拠の無い主張」
「朝鮮に戻った彼は、日本側(鳥取藩)に鬱陵島と于山島をもって朝鮮の地界とする、つまり両方が朝鮮領であると告げたとか、鳥取藩主と相対で話したなどと朝鮮側に報告しています。しかし、そのような事実はなく出鱈目です。ところが、安龍福の語った〈于山島は朝鮮領〉というくだりは朝鮮王朝側の文献に記載されていったのです」
帝京平成大学教授で、前衆議院議員の米田建三氏も強調した。
「韓国側は明示出来る根拠なしに、歴史的経緯故に韓国領だと言います。一方日本側には竹島が日本領であることを明示する多くの歴史的経緯と資料があります。江戸時代初期の1618年には、鳥取藩の回船業者、大谷甚吉と村川市兵衛の両名が鳥取藩を通して幕府に鬱陵島への渡海・開発を願い出て許可されています。彼らは鮑やアシカ漁で大きな利益を得ていました。地図を見て下さい。両名が渡海・開発を許された鬱陵島は竹島の北東、朝鮮半島寄りの位置にあります。つまり江戸時代には、竹島のみならず、ずっと先の鬱陵島も日本領だったのです」
だが1696年(元禄9年)徳川幕府と李朝の間で鬱陵島の帰属問題が生じ、幕府は争いを避けるために日本人の同島への渡海を禁じてしまった。江戸時代の日本は、武器としての刀が心を写しとる鑑となった時代でもある。争いを好まなかった時代なのだ。
結果として鬱陵島は朝鮮領となった。しかし、その時でさえも竹島は明白に日本の領土であり続けたのだ。では、彼らの主張する近年の歴史的根拠はどうか。
韓国側は、日本が竹島を島根県に組み入れたのは1905年で、そのとき韓国を含む他国が抗議しなかったから日本領だと主張するのは理不尽だ、なぜなら、韓国は前年の2月に日韓議定書を、8月には第一次日韓協約を結ばされて外交権を奪われており、発言さえ出来なかった状況だったからと主張する。
米田教授は、この主張も誤りだと述べる。
「日韓議定書は韓国の外交権とは無関係です。第一次日韓協約によって日本が韓国の外交権を管轄した事実はありません。また、日本政府が竹島を島根県に編入したのは当時の日本の特殊な事情があります。明治維新で近代国家に成長しようとしていた日本はあらゆる点で国際法を重視しました。領土も国際法に沿って規定すべきだと考え、日本領である竹島を島根県に編入した。それが国際社会の一員としての決まりだと考えたからです」
ちなみに日本が韓国の外交権を管轄するのは1905年11月の第二次日韓協約以降、竹島編入の9ヶ月後である。
次に韓国側は、サンフランシスコ講和条約には、竹島を日本領とするという記載がないために、日本は竹島を放棄し韓国の領土となった、と主張する。
摩擦を恐れず主張せよ
この点については、国立国会図書館参事の塚本孝氏が興味深い論文を『中央公論』(2004年10月号)に寄せている。以下、塚本論文の要旨である。
1951年、米国はサンフランシスコ講和条約の草案を作成し、関係国に通知した。韓国は戦勝国ではなかったが、意見を述べる機会を与えられた。そこで1951年7月、梁佑燦(ヤンウチャン)駐米韓国大使がダレス国務省顧問を訪ね要請した。日本が朝鮮の独立を承認して、放棄する領土として、米国の草案が「済州島、巨文島及び鬱陵島」となっていたのに、「独島及び波浪島」を加えて欲しいというのだ。
波浪島は済州島の沖合にある水面下5メートルの暗礁で領有権の対象とはならない。独島、つまり竹島についてはダレス長官が朝鮮併合前に朝鮮領であったのかと尋ねた。梁大使はそうだと答えた。ダレスは、そうであるなら日本が放棄すべき領土に独島を含めることには問題がないと答えた。
1951年8月10日、米国は韓国に書簡で正式に回答した。同書簡には韓国の竹島に関する要求について、「遺憾ながら賛同出来ない」とある。独島、又は竹島として知られる同島は、「我々の情報によれば朝鮮の一部として扱われたことが一度もなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません」との記述だ。
梁大使の偽りの説明は却下された。外交交渉では竹島を入手出来ないと判断した李承晩政権は、翌年の1952年1月18日、サンフランシスコ講和条約が発効される4月28日を前に、国際法を無視した「隣接海洋の主権」を主張して、公海上に李承晩ラインを引き、その中に竹島を入れてしまった。1954年9月2日には、竹島の武力占拠を決定し、警備兵を配備して現在に至る。
塚本論文からも、韓国側の手法の訝しさが見えてくる。韓国の古い文献を丹念に調べた下條教授の研究結果とも合わせると、彼らの主張が虚偽から生まれたこと、その主張を通すために国際法も外交の常識も無視した次元で文字通り力ずくの戦術が展開されてきたことは明らかである。
理は韓国に非ず、日本にある。しかし、日本も深刻な問題を抱えている。それは、これだけ明確な根拠がありながら、政府はこれに基いた反論を堂々としてこなかった。
常に半歩下がるかのような姿勢で抗議をする。摩擦を恐れて遠慮する。これで国家か、政府か。こうした日本外交の隙を突いて、韓国は竹島に灯台や港を建設し、観光便まで開設した。多くの日本人は韓国の実行支配が確実に進んでいると懸念している。
だが、領有権論争が顕在化した後のいかなる措置も、国際司法裁判では考慮の対象とはならない。韓国の竹島における現在の“実行支配”は国際法上、全く無意味なのだ。
日本は今、何をなすべきか。まず、竹島は日本領という根拠として下條教授らの研究結果をとり入れる形で、韓国側の資料を用いながら政府レベルで広く、国際社会に主張することだ。韓国の実効支配は国際法上無意味であることを忘れずに、粘り強く日本の主張を継続すればよい。
当然、摩擦は生ずる。しかし摩擦を恐れる限り、事態は改善されない。必要な摩擦を避けることなく国際社会に説明を続けると同時に、健全な日韓関係を守っていくために、韓国への協力を日本側から呼びかけていくことだ。
余力の少ない側は守りの姿勢を取る。更に高じて攻撃の姿勢に転ずる。余力のある日本こそが、日本を拒み続ける韓国に正論を主張しつつ、未来に向けての協力の手を差しのべ続けることだ。